昨日、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を宗教活動と認定し、憲法違反
(損害賠償請求は棄却)とする判決が福岡地裁で出されました。
判決について首相は、私的参拝と述べ今後も靖国神社参拝を続ける
意向のようで、今後もあちこちで「国及びその機関が宗教活動をしたか
どうか」を中心に公的か私的かとか、他国への影響があるとかないとか
さまざまな議論が続くと思います。→(「ヤスクニ」1、2、3で少し書きました。)
わたくしは、それらの議論の中でも「信教の自由」に注目しています。
わたくしの子どもが小学生のときに通っていた小学校は、近所の神社の
祭りに子どもたちを参加させていました。わたくしは、「参加には一歩譲る
としても、神社の境内に上がりお祓いを受けさせることはおかしい」と
小学校の校長に意見をしました。校長は「これは宗教行事ではなくて
地域社会にふれる学校行事だ」と言いました。
「神社側は、宗教行事と考えているのでお祓いをするのではないのか。
また、宗教上の理由でその日を欠席している子どもがいることを校長は
知っていますか」とわたくしが質問してみますと、欠席者のことは知らない
ので調べるとのことでしたが、宗教行事に関しては、神社側のことはわから
ない、学校行事であるの一点張りでしたし、そのうち学校のことに口出しを
してもらっては困ると言い出しました。
その後、教育委員会や市会議員のはたらきでお祓いは中止されました。
その結果は、子どもたちひとりひとりの信教が大切にされたことでもあります。
今回の靖国神社の件もそうですが、神道自体を悪く言っているわけでは
ないのです。小泉純一郎首相もおそらく、神道ではない自分の宗旨をおも
ちなのではないかと推測します。政治的な活動も必要かもしれませんが、
そのことによる形だけの参拝なら、首相の言う戦没者に哀悼の誠をささげ
るどころか逆にいいかげんな参拝になっているのではないかと思います。
言い過ぎかもしれませんが、神社側(靖国神社もうちの近所の神社)も
「お参りを宗教儀礼として大事に考えてください、学校行事や政治活動と
ごちゃごちゃにしないでほしい」と、首相や学校の参拝拒否をするぐらいの
神道宗教家(?)としてのプライドを持ってほしいものです。
あいまいになってきた日本の神仏混合の思想は、憲法20条で本当は
はっきりしたはずですが、戦後もあいまいなままになっています。それを
改めていくこと、つまり日本人ひとりひとりが、自らの生きていく基盤
になるものを深く考えはっきりさせていくことは、いま大切なことだと考えます。
逆にそのことこそが、それぞれの宗旨を尊重することになるのではないで
しょうか。それこそ「信教の自由」の意味するところだと思います。
以上のような理由から、今回の司法判断は、日本国民への警鐘としても
たいへん重要だったと思います。