「ヤスクニ」〜首相靖国神社参拝に思う

今月8月13日に総理大臣小泉純一郎氏は、靖国神社を参拝しました。
このことについて、日本国内外で多くの論議が起こったのはご承知の
とおりです。

靖国神社は、明治政府の国家神道政策の中心になる軍事施設であった
ことは疑いのない事実です。戦争が終わり、いち宗教法人となりましたが、
戦前と同じように国で護持していこうという動きがあり、このことは政教分離
の原則に反するもの(憲法違反)と考えられます。

また、国によって選別された一部の人を「英霊」として賛美する姿勢
(よく聞く言葉として「靖国国営に反対するものは日本人ではない」という
差別・排除の姿勢)は、私たち日本人もさることながら、他国からみても
憤りを感じることは、明白だと思います。

これらのとらえ方、考え方はいろいろあります。今回この論議は別にしまして、
「参拝する」ことの意味について私は考えたいと思います。私たちは、神社
やお寺に何のために何を参拝(参詣)しているのか考えてみてください。
以外にそのことがはっきりしていないのではないでしょうか。

小泉首相は、靖国神社参拝で「謹んで哀悼の誠をあらわす」と言われました。
「哀悼の誠」とは何でしょうか。「あらわす」とはどうすることでしょうか。だれに
参拝したのでしょうか。死んだ人のお骨、それとも霊魂・・・。

「拝む」ということひとつをとっても、どうも私たちはハッキリしていないようです。

資料によると、ほとんどの日本人が新聞とテレビを価値基準にして
行動しているそうです。だからお盆になると、何だかわからないけれど
みんながお墓にお参りするから私も参っておこう、と、こうなるのです。

このようにひとりひとりに価値基盤のない日本人は、外国の人たちから
見ると正体のわからない、まわりに流される恐ろしい人間に見えてしまう
ことは仕方ありません。隣国の人々が、首相参拝で日本中が戦争への
イデオロギーに向かってしまうのではないかという不安にかき立てられ、
抗議することもよくわかります。

そこで、「拝む」とはどういうことなのかをハッキリさせましょう。

みなさんは、神社では「こうなってほしい」「お願い、こうしてください」
と、自分のエゴを神さまに押しつけてくることでしょう。いや神社だけ
ではなくお寺でも「やすらかに眠ってください(仏さまにしてみると
迷惑勝手な話ですけど・・・)」とお祈りしている人もおられることでしょう。
とにかく、私の方が神や仏を拝んでいるのです。

神社と違ってお寺へは「参拝」ではなく「参詣(さんけい)」すると言います。
学問などが深いことを造詣と言うように「詣」には、行き着いて深く考える、
考えさせられるという意味があります。つまりお寺へお参りするのは、私が
先に亡くなられた仏さまを拝むのではなく、先に亡くなられた方々(諸仏)から、
拝みに来た私の方こそが考えさせられる(拝まれている)ということなのです。

では、私は仏さまから何を拝まれ、考えさせられるのでしょうか。

それは、『歎異抄』の13条に親鸞聖人が、「さるべき業縁のもよほさば、いかなる
ふるまひもすべし(どうしてもそうしなくてはならない縁に会えば、
人はどのようなことでもします)」と示されますように、私自身(人間)の
不確かさ・エゴイズムを考え(慚愧)させられるのです。

本願寺派も戦時中は、鐘の拠出や靖国浄土なる矛盾した教えを説くなど
積極的に戦争協力をしました。そのことは、私たちが縁さえあれば迷信・
俗信に流され、いつでも人を差別する存在であることの証明です。

そのようなフラフラした基盤しかもたない私たちに阿弥陀如来や諸仏は、
「わたし(仏さまの願い)をよりどころ(基盤)として、毎日の私自身のいのちの
あり方・生活を振り返りましょう」と戒めてくださっているのです。

私たちは、仏さまを拝むのではなく、実は仏さまから拝まれていた(願われて
いた)存在であったことに気づかせてもらいます。

自分自身のいのちのあり方を振り返ったとき、いのちを殺してきた
我が教団の歴史を慚愧すると共に、非戦・平和の決意を新たに
していきたいと思います。

首相の靖国神社参拝は、単なる政治・社会的な問題である以前に、
私自身の信心(仏に拝まれていた私)の問題として大変重要であると
考えます。そしてそれは、私たちの宗派が「靖国」を「ヤスクニ」つまり、
私自身の問題ですよとカタカナ表記していることにもあらわれているのです。

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