道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証(しょう)し難(が
た)きことを決して、唯(た)だ浄土の通入(つうにゅう)
すべきことを明かす。
ここからは、七高僧第四祖の道綽禅師について述べられます。
道綽禅師も中国の方で、曇鸞大師滅20年後にお生まれになられま
した。この年は、正像末の三時思想(釈尊滅後5百年を正法、その
後1000年を像法、その後一万年を末法の時代とする考え方)の末法
のはじめにあたります(末法の時代には、仏の教えが残るだけで
修行する人もさとりをひらく人もあらわれないとする)。
このような時代背景の中、『涅槃経』や禅の実践に精進されていた
道綽禅師は、たまたま曇鸞大師がお建てになった玄忠寺を訪れ、
その碑文に遇われました。
「仙経を焼き捨てて阿弥陀仏の道に入られた」と書かれたその碑文
に感銘を受け、道綽禅師は浄土教(本願他力)の教えに帰依された
のでした。
それから、道綽禅師は『観無量寿経』の研究をされて、『安楽集』と
いう書物を書かれました。『安楽集』では、仏教を聖道門と浄土門の
二つに分けられました。
龍樹菩薩が仏教を難行道・易行道に分けられ、曇鸞大師は難行道
を自力、易行道を他力とされ、そして、道綽禅師は難行自力の道を
聖道門、易行他力の道を浄土門とされたのです。
末法の時代にあって、聖道門の修行では、一部の人だけが救われ
る教えであって、すべての人はさとり(証り)難い。唯、阿弥陀如来の
本願によって、お浄土へ生まれさせていただくことがすべての人の
救いの道である、と明らかにされたのです。
自ら十数年間のきびしい修行をしておられた道綽禅師のおことば
だからこそ説得力があり、当時の中国玄忠寺近隣三県に広くお念仏
の声が広まったと云われています。