万善(まんんぜん)の自力、勤修(ごんしゅう)を貶(へん)す。
円満(えんまん)の徳号(とくごう)、専称(せんしょう)を勧
(すす)む。
この部分は前回のところを深めて教えています。
道綽禅師は、末法の時代にあって、善をつみ万行を修める自力では、とても仏
にはなれないと、聖道門の教えをひるがえすよう勧められました。
人間は、生きている限りエゴイズムつまり煩悩の身を離れることはできません。
そのような身でどんなに善をつもうとしても、それは純粋な善とはいえず仏になる
ことはできないのです。
仮に修行を続け、善をつむことができたとしても、それによって人間の煩悩は
おごり高ぶりの慢心を生み出すことでしょう。
そのような煩悩の身である私だからこそ、阿弥陀如来は円く切れ目なくすべての
ものを救う広く深い徳を名号に修めて私に願い届けてくださるのです。その仏の
願いをお念仏としてそのまま聞かせていただくことを、道綽禅師は勧められるのです。