前回、『仏説観無量寿経(観経)』の本意は『仏説無量寿経(大経)』を通して
味わうことを善導大師は明らかにされたことを述べました。
それでは、当時の『観経』はどう解釈されていたのでしょうか。
当時『観経』は、定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)をすすめられていると
考えられていました。定善とは、静かに如来や浄土のすがたを心に
想うことで悟りを得ることです。散善とは、善いことをして心を改めて悟りを
得ることです。
善導大師は、定善で心を静めたり散善で心を改めてもそこに成仏
はないと示されました。つまりふたつの善を捨てられたのです。
人間は、善いことをすればそれを手柄にして邪見驕慢の心が起こってきます。
このように善人は自分のした善に縛られて仏になれないのです。
また、逆悪(五逆と十悪)の人つまり煩悩のままに悪をなす人も悪のために
仏にはなれません。
阿弥陀如来は決して仏にはなれないわたくしを哀れみ、光となって仏縁
に導き、往生の因となる名号を聞く身にさせてくださるのです。
善・悪(ともに自力)を離れられないわたくしに、阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏
の呼び声として願いをとどけ(信心)、わたくし自身の姿を明らかにしてくださり、
浄土にお救いくださいます。絶対他力の教えがここに顕されるのです。