弥陀仏(みだぶつ)の本願念仏(ほんがんねんぶつ)は、
邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)、
信楽受持(しんぎょうじゅじ)すること甚(はなは)だ以
(もっ)て難(かた)し。難(なん)の中の難(なん)、
斯(こ)れに過(す)ぎたるは無(な)し。
ここでは、信心をいただくことが難しいのは、疑いのこころにあること
を示され、それをいましめられています。
阿弥陀如来(弥陀仏)の本願念仏、つまり他力の信心(信楽)をいただく
(受持する)ことは、難中の難であると述べられます。
他力の信心は「聞即信」、聞くことで信を得ることができるはずなのに、
信心は得難いと言われます。なぜ、信じやすいはずの弥陀の本願が
難中の難といわれるのでしょうか。
それは、私に邪見と驕慢のこころがあるからです。
邪見とは、真理にそむいた見方・考え方のことで、自分がいつも
一番正しいと思っている人のことです。自分の考えに固執して、
耳をかそうとはしませんから、仏の願いは聞こえずに、易しい教えが
難しいものになってしまうのです。邪見の悪衆生と呼ばれます。
驕慢とは、おごり高ぶりの姿のことです。自分の知恵や財力をほこり
人の話を素直に聞こうとしない人です。このような人は、自分の力で
仏の悟りをひらくことができると思い上がるので、仏の願いが届いて
もそれを受け止めずに聞き流してしまうのです。驕慢の悪衆生と
呼ばれます。
しかし、阿弥陀如来は邪見驕慢の人は、本願念仏を信じることが
難しいからダメだと見捨てられたのではありません。邪見驕慢を
いましめるとともに、邪見驕慢の悪衆生でも、そのこころを転じて
素直に本願のいわれを聞いてほしい。そうすればこれほど易しい
救いの道はないのだよ、広大な利益をいただくことができるのだよ
と、すすめられるのです。
阿弥陀如来のお慈悲の深さをよくよく味わいたいものです。
「法蔵菩薩因位時」からここまでが、『仏説無量寿経』のおこころを
讃嘆された「依経段(えきょうだん)」と呼ばれるところです。