凡聖逆謗(ぼんしょうぎゃくほう)斉(ひと)しく
廻入(えにゅう)すれば、衆水(しゅすい)海に入りて
一味(いちみ)なるが如(ごと)し。
信心をいただき、阿弥陀如来から恵まれる利益のふたつめです。
凡夫(ぼんぶ)も聖者も五逆の悪人も仏の教えを謗(そし)ってやま
ない者も、廻心(えしん)して帰入(きにゅう)、つまり、はからいの心を
離れて、他力信心の道に入れば、阿弥陀如来の広大無辺のお慈悲
の海は、すべての者を分け隔てなく、ひとつにとけ合い受け入れ、
現生には正定聚の位に住しめ、いのち終われば浄土に往生せしめ
るのです。
ここで、みなさんおかしいと思われませんでしょうか。
ご本願(第十八願)では、五逆と正法を誹謗(ひほう)するものは、
救いから除くと説かれています。しかしここでは、除かずにすべての
ものを受け入れることになっています。矛盾しています。
十八願最後の「唯(た)だ五逆と誹謗正法(ひほうしょうほう)
とをば除く」の部分を、唯除(ゆいじょ)の文(もん)とか抑止文
(おくしもん)と呼びます。
「除く」というお言葉は、ちょうど、「あなた、そんなに悪いことをするなら、
もう知らないよ(でも、心の中ではいつも気にかけているよ)」と、
親が子どもを思って叱っていることと似ています。
抑止文は、阿弥陀如来のすべてのものを分け隔てなく必ず
救うというお慈悲の裏返しだと味わいます。五逆(心の中であの人さえ
いなければと考えたり、縁によっては人を傷つけることもある人間)
の罪を犯したり、謗法(仏法が生きるよりどころとなっていない)
の私であることを自覚させていただくための御文と味わえます。
そのような姿をもつ私でさえ阿弥陀如来のお慈悲は受け入れ、
海があらゆる水を同じ塩味の海水に変えるように、信心の功徳を
受けることができるのです。