摂取(せっしゅ)の心光(しんこう)、常(つね)に
照護(しょうご)したまう。

ここからは、信心の第3の利益です。

信心を得た人は、阿弥陀如来の智慧から放たれる光明(心光)に
照らされ護られ、生活させていただくということです。

摂取とは、摂(おさ)め取るということです。これに不捨(ふしゃ)と
いう言葉が付いた、「摂取不捨」という言葉が『観無量寿経』に出て
きます。如来の願いに出遇い、自分自身の本当の姿を知った人を、
如来の光明摂取して捨てません。

どんなに罪業深くとも、また如来から遠ざかる姿勢であっても、
浄土和讃「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、
摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」
の左訓(いわば注意書き)に「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて
永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追(お)はへ取るなり。・・・」
と親鸞聖人が示されたように、阿弥陀如来は、見放すことは
決してありません。

さらに、正像末和讃の2首

  「無明長夜の灯炬(とうこ)なり、智眼くらしとかなしむな、
  生死大海の船筏(せんばつ)なり、罪障おもしとなげかざれ」

  「願力無窮(むぐう)にましませば、罪業深重もおもからず
  仏智無辺にましませば、散乱放逸(ほういつ)もすてられず」

にも、阿弥陀如来の常照護のお心がよく味わわれます。

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