極重(ごくじゅう)の悪人(あくにん)は、唯(た)だ仏(ぶつ)を
称(しょう)すべし。我(われ)亦(ま)た彼(か)の摂取(せっしゅ)
の中に在(あ)れども、煩悩(ぼんのう)、眼(まなこ)障(さ)
えて見ずと雖(いえ)ども、大悲(だいひ)倦(ものう)きこと
無(な)くして、常(つね)に我(われ)を照(てら)したまう、
といえり。

さらに源信和尚は『往生要集』に、『仏説観無量寿経』から「極重悪人
他の方便なし、念して極楽に生ずることを得と。」を引用され、
極重悪人である私は、お念仏を聞かせていただく他にお浄土に生まれる
方法はないことを示されました。

しかし私は、必ず摂取する(必ず浄土に救う)という阿弥陀如来の願いの
るけれど、私の煩悩(自らの力に慢心すること)で、それさえ疑いえて
こないのです。

そんな私でも阿弥陀如来の大悲は、(なまけ飽きる)ことく私をらし
続けてくださることです。

源信和尚のわが身を振り返りつつもお念仏を喜ぶ姿を、親鸞聖人が自らの
姿に重ね、喜びと感動をもってあらわされていることがよく偲ばれるところです。

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