已(すで)に能(よ)く無明(むみょう)の闇(あん)
を破(は)すと雖(いえ)ども、貪愛瞋憎(とんあい
しんぞう)の雲霧(うんむ)、常(つね)に真実信心
(しんじつしんじん)の天(てん)に覆(おお)へり。
私たちは、阿弥陀如来の智慧の光明にいつも照護され、
已に無明の闇を破られていても、私たちは、依然として
貪欲・瞋恚の煩悩の雲や霧が、たえず(常に)信心の
天空一面を覆っている。
阿弥陀如来の智慧の光は、私たちを照らし護ってくれます。
それは、無明(煩悩の根元:ここでは、如来の本願を疑う自力の
心のこと)の闇さえうち破って私にとどいて来てくださるのです。
しかし、阿弥陀如来に救われた身となった私たちの心は、
雲ひとつなく澄みきっているでしょうか。
いつも私たちは三毒の煩悩をかかえて生きています。自分中心
の欲は尽きることなく、その欲望が満たされないと怒りで一日中
イライラしています。お念仏の声はときどきしか現れず、お救いを
喜ぶ心もどこにいったのでしょうか。
このような貪愛・瞋憎が真実信心の天を覆っている自分だと、
ご自身を慚愧せられた親鸞聖人のお言葉に、私も私自身の
毎日の姿を振りかえりざるを得ないのです。
そんな私の姿にお答えくださっているのが次のところです。