至心信楽(ししんしんぎょう)の願を因(いん)と為(な)す。
前回お話ししたように、阿弥陀如来の願いのすべてを仕上げた南無
阿弥陀仏の名号は、いつでもどこでも常に私に届いています。
その名号のおいわれ(願い)を聞かせていただくことで、私の悩む煩悩のこころ
に如来のお慈悲が宿り(=信心)、悩むこころは、晴れた喜びのこころに転じら
れていくことでしょう。
この疑いはれた喜びのすがたを信楽といい、それはそのまま如来からいた
だいた真実心(至心)のあらわれです。その真実心をいただくとき私の往生は
まちがいなく約束(欲生)され、浄土への道を歩む出発点とさせていただくの
です。
つまり、信楽も至心も欲生もすべて如来の願いによって恵まれた信心です。
だから、信心こそが、浄土往生がまちがいない身(因)となりうるのです。
このいただいた信心は、第十八願のことであり、その願は、「至心信楽(欲生)
の願」と示されています。
第十八願(至心信楽(欲生)の願)
「設我得仏(せつがとくぶつ) 十方衆生(じっぽうしゅじょう)
至心信楽(ししんしんぎょう) 欲生我国(よくしょうがこく)
乃至十念(ないしじゅうねん) 若不生者(にゃくふしょうじゃ)
不取正覚(ふしゅしょうがく) 唯除五逆(ゆいじょごぎゃく)
誹謗正法(ひほうしょうほう)」
『仏説無量寿経 上巻』
繰り返しますが、如来の願いは、衆生を我が国に生まれさせる(浄土往生)
という願いです。ただし、その願い(浄土往生)は未来のことではなくて、
今ここに毎日を尊く大切に生きてほしいという願いなのです。