基幹運動の課題〜業・宿業
業とは本来、梵語のカルマ、つまり単に「行為」の意味なのですが、
因果の考え方と結びついて、前々から存続して働く一種の力のよう
にみなされてきました。
つまり、ひとつの行為が苦や楽の結果をもたらすというように考え
られたのです。
インドに古くからあった輪廻の思想は、その考え方をさらに広げて、
業が前世から来世にまで続くというようにみなしました。インドの
思想にこの業の考え方は大きな影響を与えて、仏教にも少なからず
とりこまれました。
また、現在でもこの誤った考え方を悪利用して宿業説や宿命論(そ
んなことをしたら来世は不幸になるとか、今の苦悩は前世のむく
いである)などと、人をいっそう迷い惑わすことを言っている人も
います。それは、本来のカルマからまったく遠く離れた考え方で、
まちがいであるといえます。
浄土真宗の教団も誤った業を説いてきた歴史があります。社会がつ
くり出した差別や苦しみを、あたかも本人の責任であると布教して
きたのです。本当の原因から目をそらさせるために宿命的な業の考
え方を持ち出して、被差別者に現実の苦しみをあきらめさせてきた
のでした。
仏教の業は、そういった宿命論ではありません。今の罪は過去の業
だという言い方では、自分(私)という主体が欠落しているからで
す。(手のとどかないものに責任転嫁している)
仏教は、業(行為)の努力によって自己の生き方を良い方向へ転換
していくことができるという意味で業を用います。つまり主体的な
ものです。
さらに、その主体(私)も縁起の中での私であり、過去・現在・未
来の三世を通して、いろいろないのちをつらぬいてきた主体であ
るという自覚(責任)の上のことです。
だから業は私に、あきらめと絶望をもたらすものではなく、
「精進努力」と「責任」を教えてくれるものなのです。
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