代理出産について考える
先週長野県で、国内初の代理出産の治療が、行われました。
代理出産は、米国の一部の州と英国では法律でも認められていますが、
トラブルも多いようです。
日本には、それに関する法律はまだ整備されていません。
妊娠・出産による第三者のリスクが大きいとか、産まれてくる子どもの権利
があいまいなどの現実面の課題や女性(子宮)を道具にしているなどの
倫理面の課題などから、2003年をめどに禁止の方向で法整備は、
進んでいるようです。
しかし、子どもを産みたいという親の気持ちやそれに力を貸したいとする
第三者(今回は妹)の気持ちをどうするのか。議論になるところです。
今回のことを仏教の教えを智慧に、わたくしなりに考えてみたいと思います。
我が子を平気で暴行したり殺してしまったりと、近頃のニュースは流します。
たいへんな思いの中、子どもの親となられた今回の方は、きっと大切に
子どもをお育てになることと思います。
ただし、ひとつだけその方にお聞きしてみたいことがあります。
それは、なぜ子どもをもつことにこだわられたのか、ということです。
言い換えると、子どものいのちと同時に、自分のいのちをどのように
見ておられるのかということです。ぜひお聞きしたいです。
老後のご心配なら、福祉の問題にもかかわります。子どもがいないという
ことへのまわりからの偏見による圧力なら、差別の問題でもあります。
実際、男でなければダメの時代があったぐらいですから、それも
考えられるところです。いや、親としての喜びがほしい、ということかも
しれませんね。ぜひお聞きしたいです。
以前は、子どもは「さずかる」と呼びましたが、今は子どもを「つくる」という
言い方をします。だんだんいのちがモノに近くなっていっています。
どちらも違うと思います。子どもは仏さまから「あずかる」のでは、ないでしょうか。
仏教で示すところのいのちとは、縁起に基づく、もっと大きな流れ(つながり)です。
阿弥陀は、サンスクリット語では、「アミターユス」。つまり、「ア」は否定の
意味です。それから「ミタ」は、はかり(量り)ということ。「ユス」は、いのちです。
「アミターユス」は、「量ることのできないいのち」。「無量寿」の意味です。
仏教は、その大いなるいのちの流れ(無量寿の阿弥陀仏)から、私はいのちを
いただいて、生活をし、やがてまたいのちの流れに還っていくと示します。
子どものいのちも私のいのちも、阿弥陀の流れから産まれる同じいのちであり、
それは、誰のモノでもないのです。
子どものいのちさえ私のモノにしてしまっているところが、私たちにはないでしょうか。
そんな中、やがては死んでいく私が生きることにどんな意味があるのでしょうか。
私のこうしたいああしたいという願いを達成するとは、どういうことなのでしょうか。
子どもをあずかる私自身のいのちは、どうあるべきなのでしょうか。
親としての喜びとは、何なのでしょうか。
さて、自分のいのちについての解決はしているのでしょうか。
私の願いや欲望が達成できず、悲しみ・不安や迷いの日々を送るの中、
常に私を生かしてくださっている大いなるいのちの
流れがあることに目覚めたとき、おのずと答えが見えてくるようです。
まとまりませんでしたし、子どものいるあなたに子どものいない人のことは
わからない、女性でないのに・・・という批判もあるでしょうが、
この課題は、それを越えた論議が必要だと勝手に思いました。お許しください。
ご意見、お待ちしています。