住職に尋ねにくいこと & わかりづらい仏教語 皆さまからのご質問の中に以下のようなことがたびたび聞かれます。 お答えいたします。 問い ご住職のことを何とお呼びしたらよいのですか? 答え この辺りでは、「ご院家(いんげ)」と呼ぶことが多いです。 「院」は、お寺の別称です。お寺に住まわせていただく者ということでしょう。 もちろん「ご住職」でも結構です。 ちなみに、住職の妻を「坊守(ぼうもり)」、後継ぎを「若院(じゃくいん)」、 住職の父母を「前住職(ぜんじゅうしょく)」「前坊守(ぜんぼうもり)」と 呼んでいます。 また、和尚(おしょう)は禅宗・浄土宗で、和尚(かしょう)は天台宗で、 和尚(わじょう)は法相宗・真言宗などで呼ばれることが多いです。 問い 浄土真宗のお坊さんは、剃髪(ていはつ)しなくていいのですか? また、肉食(にくじき)・妻帯(さいたい)してもいいのですか?修行はないのですか? 答え ひとことで言いますと、浄土真宗の教えの内容からそうなってくることなのです。 親鸞聖人は、出家され(家族と離れ、剃髪し、精進料理をいただき)比叡山で20年間 きびしい修行をなされました。 しかし、「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども 妄雲なお覆ふ」(嘆徳文)と、修行をすればするほど、ご自身の煩悩の火はますます 燃え盛るのでした。そこで、親鸞聖人は山を下りられお念仏の道を選んでいかれた のです。 お念仏の道とは、「非僧非俗(僧=出家にあらず、俗=在家にあらず)」つまり、 自分だけの悟りにあくせくする出家者でもなく、世間の流れに流されていく在家者 でもない、阿弥陀如来のご本願に照らされ生かされていく凡夫(ぼんぶ=人間)として の道です。だから、浄土真宗の僧侶は修行(剃髪を含め)はしませんし、家庭を持って います。 ただし、浄土真宗の僧侶も得度式(とくどしき:僧侶になるための儀式)の時には頭を 剃ります。それは、自分が僧侶になる意味を形の上でも自覚していくためです。 浄土真宗にはこのように形としての修行はありませんが、あえて申しますならば、 「聞法(もんぼう)」が修行といえるかもしれません。形がないだけに、この修行は私自身 の自覚にかかっています。最も厳しい修行といえるかもしれません。 問い 「往生」という言葉の意味がはっきりしません。 答え 困った時や行き詰まった時によく使われていますが、本来の意味は浄土に往きて仏に 生まれることです。仏に生まれるのが死後であるために、死ぬことも「往生する」という 意で使われています。 浄土真宗は、「不体失往生(ふたいしつおうじょう)」つまり、平生(へいぜい)に信心を いただいたものはさとりをひらくことが決定し、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいに さだまると説きます。現在の生活一歩一歩のなかに、阿弥陀如来の願いを中心とした 新しい世界(浄土)が開けていくということです。 だから、「往生」ということを単に死後のみのこととせずに、今救われて生きる力強さを 喜んでいくことが大切です。 ○ちょっとおかしい仏教語 「大往生」・・・往生つまり人の生きる道に大も小もありません。 それぞれの生(いのち)どれもが尊いのです。 「バチがあたる」・・・生まれてから私はどれだけ罪をつくってきたでしょうか。 もしバチがあたるなら、もう何万回はバチがあたっていること でしょう。阿弥陀さまは、そんな私でも罰を与えたり見放したり しません。朋に歩んでくださいます。 「精進揚げ」・・・初七日や49日がすんだら、この言葉を使って肉や魚を食べてよい とされる所があります。精進の本来の意味は、仏道に励むことなのです。 肉や魚を食べないことを精進というのは、狭い解釈でしょう。 49日で、精進を揚げる、つまり終わってしまうのではなく、 亡き人々のご命日をご縁として、せめてこの日だけでも精進料理で、 いのちの尊さに心を寄せてほしいと思います。 「天国から見守る」・・・浄土真宗による葬儀の中でも弔辞などによく用いられる言葉です。 いのち終わった私たちが仏と生まれさせていただくのは、 お浄土以外にはありません。そして仏さまは、遠くから見守る のではなく、いつも私のそばにいてくださいます。 ○知っておこう、この日 親鸞聖人に関して お釈迦さまに関して 誕生(降誕会) 5月21日 誕生(花まつり) 4月8日 入滅(ご正忌) 1月16日 成道(お悟りになられた日) 12月8日 入滅 2月15日