迷信・俗信(めいしん・ぞくしん)

「かなしきかなや道俗(どうぞく)の  良時(りょうじ)・吉日(きちじつ)えらばしめ
 天神(てんじん)・地祇(ちぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす」
(かなしいことだなぁ! 僧侶も門徒も縁起の良い時とか吉い日とか言って、時の善し悪し
を選んでいる。天の神、地の神を崇めては、吉凶を占うことに一生懸命になっている。)

親鸞聖人のお示しくださった、正像末和讃(しょうぞうまつわさん)の中の悲嘆述懐讃
(ひたんじゅっかいさん)のひとつです。親鸞聖人は、このように迷信や俗信に迷う私たち
の姿をたいそう悲しまれました。それは、どうしてでしょうか。

私たちの日常生活の中には、「習俗」と呼ばれるならわしがあります。その中の多くは
迷信・俗信です。それは、「昔から」「みんながしているから」ということで、改めて「なぜ」と
問われることなく当然の事として考えられています。

それらは、葬儀など人の死にかかわることに多く見られます。清め塩・ご飯へのお箸立て・
茶碗割りなどその例です。現在まで習慣化されてきた現状を日本の宗教(仏教)の歴史をとお
して考えてみましょう。

仏教は6世紀に日本に伝わります。仏教の受け入れに際しては、外国の神という形でした。
日本の神と外国の神をふたつ祀(まつ)って、氏族として優位な地位を確保することに利用
されたのです。奈良時代には、国家仏教として神仏習合観がますます強くなり、平安時代に
なると、神道のもつ霊魂観も取り込みました。鎌倉時代の仏教は、とうとう悪霊を鎮める
祈祷宗教となりました。そして、それと同時に神道の穢(けが)れの思想も仏教行事の中へ
取り入れられました。

このようにして、定着していった日本人の神仏習合観(穢れやタタリを清めるために神仏
に参ろう)は、7百年の歳月を超えてなお現代にまで引き継がれてきています。さらに
迷信・俗信は、死にかかわることにだけでなく、暦(日の善し悪し)や方位などあらゆる
行事・儀式など日常生活で影響力をもっています。

出生が激減する丙午(ひのえうま)や、結婚式・葬儀の善し悪しをいう六曜などには、
まったく根拠がありません。それどころか、迷信・俗信に縛られて自分を狭い枠に入れ、
狭い生活・生き方をしているのが私たちではないでしょうか。

自分だけならまだしも、誰もがやっているからと横並びの意識をつくりあげ、同じように
しない者は、嫌悪し、そして排除していく。その差別の過程をしっかり認識しておかねば
なりません。日の善し悪しを言う人は、必ず人の善し悪しまで言うのです。

迷信・俗信は、なかば常識ででもあるかのように社会の中に生き続けています。しかし、
それが人と人とを結びつけるものではなく、人と人とを切り離し排除・差別し、人を傷つけ、
いのちまで奪う結果になるほど悲しいことはありません。

阿弥陀如来は、すべての生きものに「いまを尊く大切に生きてくれよ」と願い、「南無阿弥陀仏」と
呼びかけられます。親鸞聖人はその願いを聞かれ、仏の願いを否定していく迷信・俗信について、
自分自身の問題として考えてくれよと、文頭の和讃で私たちに問うてくださったのです。

いま現に尊いいのちを、穢れ意識そしてその意識を担う迷信・俗信によって傷つけられている多く
の人々がいます。その人々を、昔からやっているから、のひと言で切り捨てていくことは許されるこ
とではありません。私たちの身のまわりにある迷信・俗信の根拠・本質をもう一度見つめ直し、
自分のこととして考えていくことが大切だと思います。
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