「キリスト教の輪郭:百瀬文晃」という本を読みました。
キリスト教のことが、大変わかりやすく書かれています。その中の
キリスト者の生活という章に

>神の愛をいただき、この愛に生かされるとき、この愛は私たちから
>自然にあふれ出ていきます。神の愛に支えられて、弱い私たちにも、
>互いにゆるしあい、愛しあうことができるようになります。

という文章があります。なるほど、神への愛は、隣人への愛をぬきに
してはありえないということでしょう。

仏教では、愛は煩悩(ぼんのう:自己中心的我欲・我執:エゴイズム)のひと
つと説きます。さらに、数多くある煩悩の中心となる三毒の煩悩(貪欲:むさぼり・
瞋恚:いかり・愚痴:おろかさ)なのです。愛とはつまり、貪欲(とんよく)です。

自分の価値に合うものは取り込み、合わないものは排除していくエゴです。
だから、愛はすぐに瞋恚(しんに)、いかりへと変化します。自分が好きなうちは
いいけれど、嫌いになると相手の何もかもがイヤになることってありませんか。

今から2000年以上も前にインドの舎衛城にハシノクという王さまがいました。
ハシノク王は、王妃である妻マリ夫人に「そなたは、だれを一番愛していますか。」
と尋ねました。マリ夫人は、「王さま、あなたのことはだれよりも大切です。しかし、
やはり私は、私自身のことを一番愛しく思っているようです。」と答えられました。
「やはりそうか。実は私もそう考えていたのじゃ。このことが正しいことなのか、
祇園精舎におられるお釈迦さまに聞きに行きましょう。」

お釈迦さまはこう答えられます。「王さま、人間は他の人を愛すといっても、やはり
自分自身が一番かわいいのです。そして、それが人間の姿であることを自覚する
ことは、妻に本当の思いやりを持って接することにもなるのでしょう。」

もどりますが、キリスト教の教える隣人への愛・神への愛は、完成しすぎて、
この私には難しいことに思えます。

浄土真宗は、エゴにしか生きられない私であるということを知らされていくことで、
人間のもつ悲しさ・痛みの自覚が、思いやりの動き・はたらきになっていくと教えます。

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