岩屋山西正寺の歴史と今
岩屋山西正寺(いわやざんさいしょうじ)は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
四百数十年の歴史を経て現在に至っています。歴史の一部をひも解いてみましょう。
天正14(1586)年7月27日 「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水」 の辞世を残し、760余名の部下と共に散った 戦国武士の高橋紹運がこもっていた城が四王寺 山と峰続きの岩屋城です。 |
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時に九州南国の領主島津氏は九州統一の野 望を抱き、5万の兵を率いて岩屋城を包囲しまし た。そして、高橋紹運以下残らず戦死しました。 その後豊臣秀吉の援軍が九州に入り、島津は 退却し、九州全土は秀吉の下に統一されました。 現在、岩屋城本丸跡に左写真の碑があり、また 高橋紹運の墓はこの碑の下道路をはさんで石囲 の中央の四角い土墳です。 |
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岩屋山西正寺は、高橋紹運の身内である藤内 左衛門丞重勝(出家して正順)の開基です。岩 屋城陥落の前に紹運は重勝に、落城後の戦死 者の菩提を弔ってほしいと、仏像その他の宝物 を授けました。 重勝は城を出て現在の地に草庵を構え、のち に西正寺と号し、浄土真宗の末寺となりました。 |
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寺宝として高橋紹運の念持仏(法蔵菩薩五劫 思惟像)などを安置しています。 |
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庭内にセンダンの木および松があり、樹齢 300年以上と推定されます。残念ながらセン ダンの木は台風で折れ、また松は植え変わり ましたが、当時の面影ははっきりと残っています。 |
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梵鐘は、天明5(1785)年製作のものでし たが、太平洋戦争のため供出しました。 鐘名は記録に残っており、西正寺本堂に 掲示されています。 ☆いつでもお参りください。本堂廊下脇の チャイムから、住職を呼んでいただいたら いつでもご説明いたします(^.^) 。 |
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