「浄土真宗のおみのり(み教え)」

さてさてみなさま、もしも誰かから「浄土真宗のみ教えとは何?」と問われたら、あなたは何とお答えになりますか。
はっきりこう答えてください。「南無阿弥陀仏でございます。」そうしたら、また問われます。
「南無阿弥陀仏って何?」たいへんですね。どうしましょう。(^^)
この答えはありません。というより、ひとりひとりにそれぞれの生きかたがあるように、ひとりひとりでその味わい
(いただき方)は違うのです。
ただし、阿弥陀仏(=阿弥陀如来)の願いはひとつです。
阿弥陀仏の願いは、『この私をお浄土に救う』(もっとも簡単にいうと)ということです。
「えっ、お浄土って何?救いって何?私、今困っていないし救いはいらないよ。」そうですよね。救いって何でしょうねぇ。
私は身近な人の死をご縁として、よくよく自分自身を見つめてみました。わたしは、なぜ生きているか。
なぜ生まれてきて、どこへ行こうとしているのか。そして、遅かれ早かれ私にも、老・病・死がやってきます。
毎年を、毎日を、一瞬一瞬を私はどう過ごしているのか。欲しいものに執着し、小さな事に腹を立て、ぼんやり毎日が過ぎて行きます。
「いったい私は何をやっていたのだー。」生まれてきた意味、生きている意義さえ解決していない私でも本当に救われるのでしょうか。
浄土真宗を開かれました親鸞聖人は、お浄土のことを、私達に「無量光明土(むりょうこうみょうど)」と示してくださいます。
阿弥陀仏は、いつでもどこにでもいてくださり、光の様に私を照らしてくださると示されるのです。
「私(阿弥陀如来)はいつでもどこでもあなたのそばにいます。必ずあなたを浄土で仏に成らせます。だから心配はいらないよ。
どうか毎日をいっときいっ時を尊く大切に生きてくださいね。」
人生、どこに行くのかもわからず、ぼんやりと毎日をむなしく過ごしている私達にこそ、「本願力(阿弥陀仏の願い)に遇いぬれば、
むなしくすぐる人ぞなき」と、私の人生に、はっきりとした意味、力強さをあたえてくださるのです。
このように、私に生きる意味を今ここに気づかせてくださる願い・光・よび声(阿弥陀仏)に、私は頭を下げずにおられない・
恥ずかしいそしてありがとう(南無)というのが、「南無阿弥陀仏」です。
そして、「南無阿弥陀仏」をよりどころに、苦しくつらい毎日のまま、苦しみの中にも生きる意味を見出し、
意義のある確かな歩みをしていくのが、浄土真宗のみ教えなのです。
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